心の赴くままに

雑記や小説など、パッと思いついた話をつらつらと書いています

迷うことで得られること

人って迷うことで成長すると思うんです

迷った後には(逃げない限り)考えて決断してという一連の流れが必然的に発生します

この書けばたった7文字の流れですが、その中には成長させてくれるエッセンスが詰まっています

 

まず、考えるためには元となる情報が必要です

その情報を得るために色々と調べて周辺知識も手に入れて———ってやっているうちに実は物凄い情報量を頭に入れています

しかしそれらはまだ繋がっていない点の状態でしかありません

そのまだそれぞれが繋がってない点の状態から、決断に必要なものを精査していって線にしていきます

このようなプロセスを経て人は決断するわけですが、この中で決断や成長をするために最も重要なところは何かわかりますか?

答えは情報を精査をするというプロセスです

 

情報を精査するということは、これが決断するために本当に必要なのかということを考えることを指します

そのためには上澄みを掬ったような知識ではきちんとした精査はできません

様々な方法でその情報の本質に迫り、そこに肉付けをするように知識を頭に入れます

そうすることによって上澄みだけではない本当の知識が手に入るわけです

この知識をもとに正しい判断をするわけです

もし本当の知識を手に入れる前に決断した場合、大きなミスや恥をかく可能性があります

なのでとても重要になってくるんですね

 

あと、このように苦労して手に入れた本当の知識は必要な時にきちんと出てきてくれます

もしすぐに出てこなくても何かきっかけがあったとたんに一気に思い出せるはずです

友達と話していて「これ何だろうねー」という状況になったときドヤ顔できるのでオススメですw

僕自身こうすることで中学校時代は雑学王なんて呼ばれてました

 

最後になりますが、今迷っている人に向けて一言置いておきます

決して完璧に情報をそろえる必要はありません

今までと矛盾するじゃないかという声が聞こえそうですが、実はこれでいい時のほうが多かったりします

なぜかというと、決断して先に進んでみたほうが新しい発見があって成長できることがあるからです

逆に完璧な情報が必要な時というのは、生死に深く関わる時やプロジェクト等で会社の命運が関わっている時くらいです

そんなもんなんですよ...えぇ

 

迷っているからと言って、ずっと立ち止まっていては何も成長しないのは明白です

最悪の場合自分に自信がなくなることもあります

なので自信がなくても歩き出してみてください

たとえ引き返すことになっても、立ち止まってる人よりは先にゴールすることができます

色々迷って決断して様々な知識や経験を手に入れて成長してください

 

ここまで読んでくださってありがとうございました

今回はりっすんブログコンテストの「『迷い』と『決断』」というお題に沿って書いていきました

たまにはこういうのも良いですね♪

それでは、道宮怜斗でした

またね

「繰り返す」

毎日何かが生まれる

毎日何かが死ぬ

何が生まれようと何が死のうと何も変わらない

いや、何も変わらないように振る舞うと言った方が正しい

何も無かったかのように明日がくる

朝を迎える昼を迎える夜を迎える

そしてまた明日がくる

今までと変わらない、ただ毎日それの繰り返し

 

時が止まることはない

無情にも我々を次へ押し出す

「時を経ることで忘れることができる」「時が忘れさせてくれる」

人はよくこう言うけれど、当たらずしも遠からずだと僕は思う

それてしまった道を元に戻すが如く、今までの日常に戻るだけ

何も無かったかのように明日がくるのだ

 

例え僕が明日死んだとしても、明後日にはいつもの日常に戻り始めるだろう

半年後、一年後には今までと変わらない一日が続いていくだろう

いや、一つだけ違うところがある

それは僕がそこにいないこと

しかしそれは些細なことに過ぎないのかもしれない

僕が担っていた役割は必ず誰かが補完する

まるで僕が元からいなかったかのような日常が続く

流石にそれには一抹の寂しさを感じる

だがそれの繰り返しが世界であり今である

でもそれだとやっぱり寂しすぎるから

ラクタの中に咲く一輪の花のように、何も変わらない白黒の毎日に彩を加えよう

一人一色でもいい

そうすればこの世界は美しくなる

 

Inspired by 世界から猫が消えたなら

カメラが映し出すモノ

お題「カメラ」

 

お題スロットなるものを回してみました

そこで出てきたカメラについて書きます

 

 

僕はもともとカメラというものがあまり好きではありませんでした

その場面の一瞬だけを切り取るならば、流れを大事にしたいなぁと思うからなんです

ただ、写真は嫌いですが映像は好きだったりします

なので大学入ったら映像系のサークルに入ろうかなぁなんて考えていたりしています

あ、でも今では写真がそんなに嫌いではなくなっているので安心してください(?)

 

話を戻しましょう

先程も書いたようにカメラというものはその時の一瞬を切り取ります

流れの中の一瞬を映し出し、流れの中では気づかなかった一面に気づかせてくれます

それはそれはとても美しいものだったり、逆に儚いものだったりします

そのような一面を切り取るものがカメラだと思います

 

話はガラッと変わりますが、僕はカメラというものは魅せてくると思っています

少しわかりにくいかも知れませんね

簡単な例を言うと心霊写真なんかがいいでしょうか

世の中にある心霊写真で、よくよく調べると実は錯覚だったなんてことがよくあります

過去にテレビ番組で短パンを履いている男性の片足の膝から下が写ってないという写真が取り上げられていたことがあります

まるで消え去ったかのように見えるんですね

ただ、番組内で検証をするうちにある事実にたどり着いたんです

それはある長さの短パンを履いて膝を曲げると消えたように見えるということです

かなり前のことだったので詳しいことは覚えてないのですが、心霊現象ではなかったようです

ただ、その写真が心霊写真でなかったとしても、その写真を見た人たちを魅了したことには間違いありません

その写真は見事に魅せたのです

 

この例が示す通り、その時我々が気づかなかったことを捉え魅せてきます

それは心霊関係だけでなく、被写体の表情など感情面のことも含みます

その中でも特に感情面のことは、我々は微塵も疑うことなく現実として見ます

しかし本当にそれは現実なのでしょうか

 

我々がその時捉えきれなかったこと、一瞬の出来事で誰も気がつかなかったことに後から気づいたとして、それを現実として受け止めるのはやや難があるように思います

もしかしたらそんなことはその時誰も思ってなかったかもしれない

偶然が重なってそういう風に見えるだけなのかもしれない

ただそれは幻想なのかもしれない

そう思うわけです

なので、最初に少し付け足して幻想を魅せてくると言った方が正確かもしれません

 

まず何故現実として受け止めるのはやや難があると思ったのか話しましょう

前述のように、偶然が重なってできた副産物であり、その根底には我々がそうあって欲しいという欲望が無意識下で働いてそういう風に見えると思っているからです

ライブでアーティストの写真を撮ったとしましょう(この場合撮影可能なライブであると仮定します)

後からその写真を確認したら自分の好きなアーティストがこちらに向かってにっこり笑顔を向けている瞬間が写っていた

そんな写真が撮れてたらおそらくこう思うのではないでしょうか

「私を見て笑っている」と

ファンであればファンであるほどこう思ってしまうものなのでしょう

しかし何故そう思ってしまうのか

それはそうあって欲しいと思っているからです

自分の好きなアーティストに好かれたい

自分を見て喜んで欲しい

こういう感情が働きかけているのだと思います

これはある種の承認欲求なのではないかとも思います

ただ、本当に撮影者を見て笑顔になったという可能性も捨てきれませんが、その可能性は限りなく低いでしょう

総合的に考えてみると、現実として受け止めるのはやや難があり、幻想を魅せられていると言えると思います

 

これは僕が写真があまり好きではなかった理由でもあります

ある一瞬を切り取ったにすぎない一枚の写真に弄ばれてるような感覚になり気持ち悪いと思ってしまっていたんです

今ではそれも面白い、とても興味深いと思っています

 

何の変哲もないひとつの場面をとても魅力的に映し出すことが可能なカメラ

たとえそれが幻想であり現実ではなかったとしても、その一瞬が映し出す幻想に魅了され浸ってみるのもいいかもしれません

 

 

カメラについて長々と書いていきました

ただ、これは現代文である評論(題名は忘れてしまいました)を読んだ時に考えたことを書いたので完全に僕単独のオリジナルの考えではないです

「この人のこの評論と似てるじゃないか!」と思うことがもしあったとしたら、恐らくそれを僕は読んだのだと思います

暖かい目で見てくれれば幸いです

 

 

ここまで読んでくださってありがとうございました

道宮怜斗でした

またね